個人サイトを立ち上げた。写真とあらゆる文章のためのメディア。
僕がどのようなことをシコウ(嗜好・思考・志向)しているかは、これから続いていくはずの写真群と文章群を見たり読んだりして貰えば分かるかと思うのだけど、ここで改めて、文章の形にして残しておこうと思う。
僕がどのようなことをシコウ(嗜好・思考・志向)しているかは、これから続いていくはずの写真群と文章群を見たり読んだりして貰えば分かるかと思うのだけど、ここで改めて、文章の形にして残しておこうと思う。
今、手元に2冊の本がある。1冊はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』で、もう1冊は松岡正剛『フラジャイル』である。ひとまず、ここから話を始めたい。
『存在の耐えられない軽さ』では、一組の男女の恋愛劇を追いながらも、終始存在の軽さvs重さという二項対立が水面下で進行している。他人の人生や、一族の伝統、逃れ難い使命を背負うことは、重荷であると言える。もし、それらの重荷がなかったとすれば、存在は耐えがたいほどに軽くなるだろう。では、重いのと軽いのとではどちらが良いのか?
⋆ 重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか? ⋆
こうした問いが物語と交差しながら絶えず顔を覗かせている。
⋆ 重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか? ⋆
こうした問いが物語と交差しながら絶えず顔を覗かせている。
しかし、こうした問いを差し置いて、僕は存在は耐えがたいほどに軽いのだと言いたい。たとえどんなに大きな使命を背負っていたとしても、どんなに沢山の人生を抱えていたとしても、誰かに取って代わられない人生などないのだ。膨大な、あまりに膨大な可能性の中のひとつが今の僕たちで、他のあまりに膨大な可能性の殆どは、無視されるか、あるいは忘れられるかしている。吹けば跡形もなく無くなってしまうような軽さの中で、僕たちは生きている。
そして、存在は弱い。物理的にも、心理的にも、社会的にも、僕たちひとりひとりは弱い。
その弱さを、強さ⇔弱さという対立無しに、弱さそれ自体を描き出そうとしたのが松岡正剛『フラジャイル』なのだった。本書の冒頭部分から、幾つか気になるところを引く。
⋆ 結論を言うようだが、「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。 ⋆
⋆ シャープペンシルや白墨がもっているおぼつかない消息(本来傍点)というもの、消そうとおもえばいつでも消せるのにその線がのこされていく事情、もともとは弱々しいにもかかわらず、なんらかの存立条件をえて、その存在がひそかに、しかし明晰に保持されつづけている感覚、これらが「フラジャイルな弱さ」なのである。⋆
こうして定義した「フラジャイルな弱さ」について、彼は膨大な例を挙げながらその姿に迫っていく。要するに、彼がここでやったのは「弱さ」そのものの肯定であった。(僕は、かなり松岡正剛氏に影響を受けているのだが、その話は別のところでしたい)
そして、僕がやりたいのは、存在そのものの「弱さ」「軽さ」「切なさ」を肯定することである、と言っても良い。
例えば、僕はかつて、恐竜博士を志すほどに恐竜が好きな少年だった。例えば、僕はかつて、夜毎に公園でドリブルの練習をするバスケ少年だった。例えば、僕はかつて、街を自在に組み立てる偉大な建築士であった。例えば、僕はかつて……
こうした過去は、恐らく誰にでもあるだろう。何にでもなると思っていて、何にでもなりたいと思っていた時代が。こうした過去の大半は、忘れられるか、あるいは幼いものであったと笑われながら、次第に末端へと消え去っていく。
弱くて軽くて切ないとしか言いようのない存在は、強くて重くて確固としたものたちに容易にふみにじられてしまう。
そうしたあらゆる可能性とあらゆる存在を肯定するために、写真を撮り、短歌や詩を作り、松岡正剛氏の編集やシュルレアリスムに傾倒し、膜や皮膚や境界といったマージナルなものに惹かれているのだと言えば、一応の説明がつく気がする。
弱く軽く切ない、両の掌から本当にかめはめ波が出るかもしれないと思い込んでいた、小さな少年のために、これから続く写真群と文章群を捧げたいと思う。
こうして定義した「フラジャイルな弱さ」について、彼は膨大な例を挙げながらその姿に迫っていく。要するに、彼がここでやったのは「弱さ」そのものの肯定であった。(僕は、かなり松岡正剛氏に影響を受けているのだが、その話は別のところでしたい)
そして、僕がやりたいのは、存在そのものの「弱さ」「軽さ」「切なさ」を肯定することである、と言っても良い。
例えば、僕はかつて、恐竜博士を志すほどに恐竜が好きな少年だった。例えば、僕はかつて、夜毎に公園でドリブルの練習をするバスケ少年だった。例えば、僕はかつて、街を自在に組み立てる偉大な建築士であった。例えば、僕はかつて……
こうした過去は、恐らく誰にでもあるだろう。何にでもなると思っていて、何にでもなりたいと思っていた時代が。こうした過去の大半は、忘れられるか、あるいは幼いものであったと笑われながら、次第に末端へと消え去っていく。
弱くて軽くて切ないとしか言いようのない存在は、強くて重くて確固としたものたちに容易にふみにじられてしまう。
そうしたあらゆる可能性とあらゆる存在を肯定するために、写真を撮り、短歌や詩を作り、松岡正剛氏の編集やシュルレアリスムに傾倒し、膜や皮膚や境界といったマージナルなものに惹かれているのだと言えば、一応の説明がつく気がする。
弱く軽く切ない、両の掌から本当にかめはめ波が出るかもしれないと思い込んでいた、小さな少年のために、これから続く写真群と文章群を捧げたいと思う。