「ヤドリギ」というコミュニティを主宰しています。
現在は年齢や所属を問わず100人ほどが参加していて、緩やかに活動中。
活動の三本柱は対話・読書会・文芸誌制作だけど、映画上映会をしたりみんなで坐禅体験をしに行ったりと、誰かのやりたいことをみんなで色々やる、といった活動スタイルで、これがもうすぐ2年ほど続いていることになる。時が経つのは早い。

そんなヤドリギから、文芸誌第三号が発行されます!
今号も編集長として制作し、全体のディレクションと序文・編集後記の執筆を行いました。各企画にも顔を出しています。
かねがね、文字情報とグラフィックを交差させたいと言い続けてきたのですが、この第三号でそれがある程度試みられたかなと思います。見ても、読んでも楽しい文芸誌になっているはず。

前置きはこれぐらいにしておいて、ここでは第三号の冒頭に掲載している序文を公開したいと思います。これを読んで、ヤドリギとその文芸誌に少しでも興味を持つ人が増えてくれれば。
(以下、全文)
 ふるさとの無い時代になりつつある。フルサトも、故郷も、古里も以前よりずっと少なくなった。
 かつてそこは、出発点であり、同時に帰着点でもあった。乗り越えるべき敵でもあり、追いかけるべき師でもあった。姓として受け継ぐもの。この顔の、身体の、心のある由縁。なぜかこだわり続けてしまうこと。それらは時に制約となり、逃れ難いものとして纏わりついたが、それでも多くの人はそこに温かな懐古の念を向けてきた。
 そうしたふるさとは今では殆ど無くなった。都市が発達し、グローバル化が進む中で、物理的な繋がりは薄れていった。個人化が進み、ゆりかごから墓場まで(From the cradle to the grave)、自分で自分を支え続けなければならなくなった。何ものであるのか(アイデンティティ)を、自分で選択し、決定しなければならない時代に、僕らは生きている。
 確かに、自由になった。だが、その結果得られたものは何だろう。それは「無気力」ではないかと、誰かが言った(第二号)。何ものにもなり得るということは、何ものでもないということでもある。あらゆる選択肢が可能であるように感じられるときに、その大きさの前でたじろぐことは、往々にしてある。たじろいだ結果、それを放棄して手近な流れに身を任せてしまうということも、往々にしてあるはずだ。
 この傾向はますます顕著になっていくかもしれない。全てが電子データに書き換えられ、その質量を失ってしまった時に何が起こるのか。このが、あるゆる顔と代替可能になった時に何が起こるのか。
 そうしたことへの不安の中から、今号のテーマは生まれた。
 ふるさとは減っているが、代わりに「ふるさと的なもの」は増えた。教科書では、今でもふるさとを舞台にした作品が多く採用されているし、どこか懐かしくノスタルジックなものに惹かれるという人も多くいるだろう。
 今号では、それらに多様なアプローチで向き合っていく。思い入れのある、具体的なモノ(オブジェ)を見つめ直してみたのが、巻頭の〈オブジェ・カタログ(ふるさと)〉である。実際のふるさとにまつわる文章が続き、その後〈ぼくらの自由帳〉〈少年少女感覚〉といった企画が並ぶ。その後の短歌連作や児童小説と併せて、失われてしまった感覚の在処を問う。そういった既存のふるさとから脱け出していくような形で、〈Q. 出身は? / A. どこでもありません。〉がある。ふるさと像について、五十人以上へのアンケートも実施した(〈「ふるさと」についての項目64〉)。物語による多様化を経て、末尾近くの〈デジャヴ・デジゃヴ・デジャゔ〉で既視感に共通する地平を探した。詳しくは各部をご覧になられたい。
 ここで、「なぜヤドリギなのか」「なぜヤドリギの中で考えていくのか」について、簡潔に話しておきたい。
 分断の時代において、必要なのは必ずしも団結ではなく、共在――単に(・・)共に在ること――なのではないかと思っている。コロナ禍を抜けて、コミュニティは再度増えつつあるが、それらの多くは共通の趣味や目的を前提としているように見える。そうしたコミュニティでは、「ゆらぎ」が許されにくい。趣味や目的が変われば、そこにいられないからである。言い換えると、ゆらぐことなく趣味や目的を決定した先にしか、そういったコミュニティは無い。
 ヤドリギはそうではない。少なくとも、そういったことを要求するようなコミュニティにはしたくないと、主宰として思う。趣味や目的が移ろいながら、その都度思考していくこと。ゆらぐこと。その結果次第に他者化していく自分も、現実の他者も、そのまま共に在ることが出来るようなコミュニティ。ヤドリギが志向しているのはそれである。
 「ヤドリギ」は開かれたコミュニティである。趣味や嗜好を共有したサークルではないし、共通の理念や目的を持った団体でもない。
 と序文の中で言い続けてきたのは、そういう訳である。
 先に、「たじろいだ結果、それを放棄して手近な流れに身を任せてしまうということも、往々にしてあるはずだ」と述べた。寄り辺のないまま居続けることは難しい。ヤドリギは、たじろぎつつもゆらいでいく、そういう人たちの寄り辺である。
 思うに、コミュニティと文芸誌には近いものがある。それぞれの文章やグラフィックが、違いを晒しながら、それでも同時に一つの本となって存在している。そういった観点を含めてこの文芸誌を読んで貰えたらと思う。これを読む貴方が、ヤドリギ的な「ゆらぎ」を楽しんでくれることを願う。

 勿論、ここで述べられたことは著者の一意見であり、ヤドリギの総意ではない。時に類似し、時に相反するような、あらゆる思索と試作の共鳴の中に、ヤドリギはある。

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